『ヘルダーリン詩集』 〜『人生の半ば』をめぐって〜



★ブランショの『文学空間』の中で、リルケやカフカと比較して論じられていたヘルダーリンの印象は、暗澹とした切れ味とでもいったもので、その鋭さを期待して岩波文庫の川村二郎訳の『ヘルダーリン詩集』を読んでみたのだが、勝手な期待とはかけ離れた西欧式の広大なスケールを目の当たりにすることになり、いまの自分が求める作品ではなかった。それもあるのだろうが、読み進めるうちに徐々に覚えていった訳文への違和感も、最後までぬぐうことができなかった。川村二郎はいうまでもなく優れた文芸評論家であり、また翻訳家としても、ムージル、ブロッホ、リルケなど、ドイツ語圏の作家や思想家の作品の翻訳を数多く手がけている。この『ヘルダーリン詩集』も、確かに端整で、余裕の筆致といってもいい訳業だが、翻訳に対する、またヘルダーリンという詩人に対する高い理解の頂から見下ろすことによる、ある種の諦観、ないしは鷹揚のようなものが、訳はもちろん、解題、解説にも渡って伝わってくる気がする。端的に、「生身」を感じられない。そしてこの生身というのはもちろん訳者のではなくヘルダーリンの生身のことだ。

★それでも、『人生の半ば』という一編は、内容も、訳文としても、この詩集で唯一心に残る詩だった。だいたい詩集というものは、ひとつでもすばらしいと思える詩があればいいのであって、その意味では糧になったとは言える。また、この詩を通して詩訳の困難をある程度理解することになったので、それもまた意義深いことに思える。

★交響的と称されるヘルダーリンの詩の特徴が、『人生の半ば』には見事に凝縮されている。当然だが原文で読まなければその魅力は伝わらない。一〜三行目の躍動のテンポから、四〜六行目までの抑制へ移り、七行目で重厚に洗い流される。八行目のテンポを継ぎながら、九行目は三つの節でしみじみと緩やかに波打つ。そして十行目の毅然としたアクセントが切り立ち、十一行目でそのアクセントをたおやかに伸ばす。十二行目も結句の始まりにふさわしいアクセント、十三行目もまたそれを受けながら、しかし「im Winde」が、最後の十四行目を同じリズムで接続する、厳粛な一音を成している。全体を通して読むと、まさに重奏の調べとしてこの上なく美しい。

『HÄLFTE DES LEBENS』

Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
Ihr holden Schwäne,
Und trunken von Küssen
Tunkt ihr das Haupt
Ins heilignüchterne Wasser.

Weh mir, wo nehm’ich, wenn
Es Winter ist, die Blumen, und wo
Den Sonnenschein,
Und Schatten der Erde?
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen.

★この原文を、日本語のテンポに合わせて分かりやすく直訳すると、だいたいこのような感じになるだろうか。*1



黄色い梨はたわわに実り
そして野薔薇は咲き誇り
大地は湖の上に降り、
愛らしい白鳥たち、
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に

ああしかし、どこに求めればいいのだ、もし
冬が来たら、花を、そしてそう
日の光を
地上に射す影を?
石垣は立つ
声もなく冷ややかに、風は
風見を軋ませる。



★この詩を日本語に訳す際に難しいのは、やはり十三行目の「im Winde」だろう。英語にすると「in wind」だが、この音の長さに対応する日本語で、なおかつ訳詩として成り立たせるためには、前後の文章をやや組み替えなければならない。本来、ここは単純に「風に」あるいは「風は」と訳したいところだと思うが、そうすると、上のような直訳では、最後の一行のリズムがやや浮いてしまう。日本語訳は、ネットで見つかる範囲では川村訳のほかに三つあった。この「im Winde」にからんだ訳の、それぞれの違いは明確だ。

『人生の半ば』

黄色い梨の実を実らせ
また野茨をいっぱいに咲かせ
土地は湖の方に傾く。
やさしい白鳥よ
接吻に酔い恍(ほう)け
お前らは頭をくぐらせる
貴くも冷やかな水の中に。

悲しいかな 時は冬
どこに花を探そう
陽の光を
地に落ちる影を?
壁は無言のまま
寒々と立ち 風の中に
風見はからからと鳴る。

(ヘルダーリン詩集 岩波文庫 川村二郎訳)

『生のなかば』

黄に熟れる梨は枝にたわわに
茨(いばら)は咲きみちて
陸(くが)は湖に陥(お)ちる。
むつまじい白鳥よ、おんみらは
くちづけに酔い痴れて
頭(こうべ)をひたす、
きよらかな静かな水に。

しかしわが悲傷(かなしみ)は! どこに
わたしは花を摘もう、冬になれば。どこに
日の光を
地上の蔭を 求めよう。
囲壁はつめたく
ことばなく立ち 風吹けば鳴る、
屋根の風見は。

(ヘルダーリン全集2 河出書房 手塚富雄訳)

『生のなかば』

黄いろの梨は枝もたわわ
野ばらの花は咲きみだれ
岸はみずうみにかたむく
うつくしい二羽の白鳥
くちづけに酔いしれて
そのこうべを
きよらかなつめたい水にひたす

ああ しかし 冬の日に ぼくは
どこで ぼくの花を摘もう
どこで 日のひかりを
地のかげを もとめよう
壁は こえなく つめたく
立ちふさがり
かぜのなかに風見がきしむ

(ドイツ名詩選 学生社 井上正蔵訳)

『生のなかば』

黄梨(おうり)はたわわに
して野茨(いばら)の実も溢れ
大地が湖へと懸ると、
汝等、優しき白鳥(しらとり)は、
接吻(くちづけ)に酔い
頭(こうべ)を浸す
明鏡の水面(みなおもて)へと。

悲シキ哉、何処(イズコ)ニ摘モウ 私(ワタクシ)ハ、モシ
冬来タリナバ、アノ花束ヲ、マタ何処(イズコ)ニ
アノ日和(ヒヨリ)ノ陽光(ヒザシ)ヲ、
大地ノ蔭ヲ?
囲壁(カコイカベ)ハ直立シ
無言冷酷(ムゴンレイコク)。風ニ
轢(キシ)ミ軋(キシ)ル風見。

(訳者等不明*2

★結句だけ見ると、井上訳以外は原詩のリズムを重んじている。川村訳はもっとも整っているが、「Klirren」を「ガラガラ」「ガランガラン」という本来の擬音の意味にそって用いることで、最後の一節の調子が原詩よりもやや長い。手塚訳は原詩では明確ではない「屋根の」を使うことでリズムを保っている。訳者不明のものは、リズムも内容も一番原詩に忠実だが、おそらく相当古い訳で、現代の感覚ではいまひとつ詩情が伝わらない。この部分を詳しく比較し始めると際限がないが、いずれにせよ、「im Winde」にかかわるそれぞれの工夫が感じられる。

★またテンポ以前に、この詩は、梨の「黄」、野薔薇の「赤」、湖の「青」と二節の暗色、「地」や「冷たさ」、白鳥の複数と二節の孤独など、一語も欠けることのない対比を通して、至幸と絶望との激しい切り替わりを、季節の貫通を表している。井上訳以外に使われている「野茨」は、今のわれわれには「赤」のイメージが伝わりにくい。また川村訳と手塚訳の三行目は句点で終わっているが、原詩どおりならば読点で次の行につながる。川村訳は「時は冬」だが、これも本来は仮定形のはずだ。「壁」も、そのままでは唐突でイメージが湧きにくい、かといって「囲壁」ではリズムが崩れる。三行目の表現の仕方や*3、井上訳の「二羽」*4という言葉の使い方など、細かく見ればやはり際限がなくなるが、ともあれ一語一語が決定的に重要な詩の翻訳は、詩情やリズムともあいまって、非常に困難なものだ。「正気と狂気のあわいに、辛うじてしぼり出された言葉が、かつて知られなかった衝撃力をもって読者に落ちかかる」と川村二郎が解説で言うヘルダーリンの詩はとりわけ、日本語訳本はすべて原詩へのいざないと受け止めたい。

*1:原文の「Und」は「And」で、この詩では本来訳さないほうがいいのだが、リズムを考えるとどうしても使わざるを得なかった。このあたりは素人訳の限界だろう

*2:色々調べてみたが、かなり古い訳ということ以外分からなかった。それにしても、この訳の二節のカタカナ使いは、原詩に照らすと非常に印象的だ

*3:「傾く」、「懸る」などではイメージが湧きにくい。原文も意味が取りにくいので意訳となるかもしれないが、水面に地上が映る様とみていいのではないか。

*4:白鳥は水面へのくちづけに酔いしれる。「Ihr」は二羽とも訳せるが、白鳥どうしの口づけとも取られかねない。原詩も恐らく「白鳥たち」という複数形の意味だろう

『ヘルダーリン詩集』 〜『人生の半ば』をめぐって〜」への5件のフィードバック

  1. 詩って言うと日本だと生活の中から切り抜いた的なものが一般的で、むしろそれしかないように思えます。その国の言葉の特徴にもよるんだろうけど、壮大なテーマの詩の訳を見て自国の言葉の響きの陳腐さに嘆いたりしながらどこか言い訳じみてる繊細さが実って、最近の日本語は面白い響きを手に入れ出したように思います。それでも詩の根本は、その言葉によって人々を導いてしまうようなそんな強さを持った言葉が、どこまで行ってもその存在理由に思えてしまいます。日本語がひっくり返って響き出した理由のかなり深い所にある存在として、オレはブルーハーツが外せないと真剣に思っています。詩に興味があるのなら間違いなくもう一度、ブルーハーツの歌詞を読んでみて下さい。あれだけ偉大な詩人は今後、恐らく現れないと思います。また俗な所を攻めるけど(あえてだけど)トレイントレインの歌詞とかかなり良くて、弱い者達が夕暮れ さらに弱い者を叩くその音が響きわたれば ブルースは加速して行く見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる本当の声を聞かせておくれよ・・・って、どうよ! 銃を撃ってる所は現在進行形なのに過去形に感じてしまうんだけど、言葉が重なってるだけなのに立体になってる感じがしてそれは水墨画で描いていない線を使って表現するのと同じで、言いたい事を役者に言わせるのではなく展開していく事で見ている人に共感させるロストハイウェイ以降のデビットリンチのようだと思います。・・・・・この話は、前の日記だっけ?

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  2. あと、椎名林檎だね。東京群青って、脳が水滴奪って乾くって言う部分があるんだけど、あれって気化熱の事だと思うんだけど、遠回しに醒めるって言ってるんだよね?浅井健一はバイクの事を色々な言葉を使って表現するんだけど、彼女はそんな事とかを解体した上で、自分の核になってるその感情を色んな言葉を使って歌詞にしてる感じがして、天才ではなく秀才の臭いが拭いきれない感じがするんだけど、女の子だからそれで良いとか生意気な事を思ったりしています。自分の頭からはちっとも出て来ないクセに・・・。

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  3. 漢字の「詞」と「詩」を分解してみると、人と言葉との距離の、それぞれの違いが浮かぶようで興味深い気がします。ブルーハーツにせよ椎名林檎にせよ、言葉と正面から向き合っている強度がうかがえて好きです。本物の詩人の言葉は、向き合うとかそういうレベルの話ではなくなります。かつて日本にも数多くの優れた詩人がいましたが、今日本で詩はその役割を終えています。なんにせよ、僕はときどき、「どうして言葉が生まれたのか」という内容の、椎名林檎の鋭い歌詞を思い出します。

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  4. 確か1987年の『基礎ドイツ語』4月号で読んだ。それ以来忘れていた。テキストもなくした。何という詩だったかも忘れた。今日30年ぶりに邂逅しました。感謝します。

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  5. コメントありがとうございます。こうして、書いたものがだれかの役に立ったのであれば、わたしよりも、書いたものそれ自体のほうが喜んでいると思います。書いたものはわたしを離れて、過去も未来もなく、今に横たわっている気がします。それはとてもいとしい感情です。ありがとうございました。

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